渇いた水




―――人間の体の80%は水分で出来ている。
このことは医学的にも立証されおり周知の事実だ。
よって人間と水は切っても切れない関係にあると言えよう。
もし人が水を失えば、当然「命」も枯れる。
人は水を失わない為に日々、意識することなく「給水」行為をしている。ひらたく言えば「生理的欲求」の類なのだろう。
1999年ー8月4日。
日本のある都市を中心に大規模な地震が起こる。
夏の強烈な日差しが照り付ける中、ある家族が薄暗いトンネルの内部に閉じ込められてしまった。
「助けてくれ!」
母親と父親は必死になって叫んでいる。
その傍らには事の重大さに未だに気付かずにいる幼い少年の姿がある。
「お母さん、暑いよぅ」
少年は呑気な様子で文句を言っていた。
夏のトンネル内は蒸し風呂のように暑く、人間の水分を必要以上に奪ってゆく。 三人は家族であり、今日は山奥にキャンプに行く予定だったところ、突如トンネル内で地震に襲われたのだ。
入り口と出口は土砂と瓦礫で完全に埋まり、蛍光灯はほとんど割れていて暗闇状態だった。母親は少年を抱き締めて不安にさせないよう、優しい言葉をかけ続けている。
「まいったな」
父親がキャンプに使う予定だったランプを頼りに脱出の方法がないか探している。
「完全に塞がってる」
出れないことを確認すると諦めよく母親の隣にぐったりと腰を降ろした。
額には汗が玉になってドッと吹き出ている。
常識では考えられない暑さに耐えながら三人は救助隊が来るのを待つことにした。
しかしここは山奥のトンネル。それにモノが倒壊するほど大地震が起きて都市の方が無事な筈がなく、救助隊が先に都市での救助活動にあたるのは想像に易かった。
(ここにくるのは大分時間がかかるだろうな…)
父親はそれを考えてか少々絶望を感じ始めていた。
女と子供しかいないこの場で、もっとも冷静でいなければいけない男が絶望をすれば、周りも自然と不安が立ち込める。
「お父さん、大丈夫?」
皮肉な事に、この状況に唯一絶望をしていない存在が子供だった。
「……なぁ宗次、父ちゃんたちはもう死ぬかもしれん」
「ちょっと!あなたなに言ってるの!?」
弱気な父親はあろう事か息子である宗次に不安を抱かせるような発言をした、それを母親が慌てて抗議の声をあげる。

「だってどう考えたってもうダメじゃないか!」
父親は半分この状況に対しヒステリックに陥っていた。
猛烈な苛立ちと恐怖、不安が彼の精神を蝕ばんでいる。
「お母さん…僕たち、死ぬの?」
宗次は少し哀しそうに呟く。母親はそれを一生懸命に否定した。
今、置かれている『現実』と言うモノを否定し続ける。
「ううん、きっと助けがくるわ。宗次はいい子だもん、神様が見捨てる筈ないよ」
優しく諭すような口調で言いながら宗次の頭を愛しそうに撫でる。
その目には確かな優しさと強さの両方の輝きを帯びていた。
「……」
父親は無言で下を向いていた。
少しして宗次も眠りについた。母親はずっと宗次の頭を撫で続けていた。



三時間後…父親のヒステリーが頂点へと達した。
「いい加減にしろ!!助けなんてちっともこないじゃないか!!お前がピクニックに行きたいなんて言い出すからこうなったんだぞ!おい!」
父親の怒りの矛先は母親へ徐々に変わっていった。ビクンと体を震わせて脅える母親。その衝撃で宗次も目を覚ます。
ピリピリとした空気がトンネルに染み渡った。母親はびっくりしている宗次を落ち着かせようとしきりに「大丈夫よ大丈夫…」と囁いた。
宗次もしばらくしてようやく平静を取り戻す。そのまま沈黙が二時間続いた。



「お母さん、喉が渇いたよ」
水分を求める声が宗次から発せられた。
その頃には父親のヒステリーも叫ぶ元気さえ失い、ぐったりと大きなイビキをかいて寝てしまった。
「喉が渇いたの?それじゃあこれを飲みなさい」母親は用意してきた水筒を宗次渡す。
宗次は嬉しそうにそれを飲み始めた。
更にしばらくして。
「お母さん、もうお水ないよ」
「そう、ごめんね…もう少しだけ我慢してね…」
本当は母親も喉がカラカラだった。
水分が足りなくて少しガラガラな声で母親は申し訳なさそうに言う。
まだ。
助けはこない…



「お母さん……」
「ごめんね……ごめん……ね…」
宗次の訴えに、何度も謝る母親の喉は、痛々しいほどしわがれていた。ふと父親を見るとまだ寝ているようだ。
だが、母親がその様子に違和感を覚えた。
数分前までは聞こえていた『イビキ』がまったく聴こえないのだ。
「まさか」と思い、母親は父親の体を調べると………既に父親は、生き絶えていた。
信じられないほどの絶望と悲しみが母親を覆った。泣きたいが、涙と言う水分がなかった。
嘆きたいが、喉が枯れて声がでなかった。
「お父さん、動かないね……」
宗次の声も枯れてきていた。母親は宗次を痛いほど抱き締める。
「お母さん…僕、死にたく―――」
宗次が言葉を言いきろうとした時、母親はそれを塞ぐようにキスをした。
母親は少しでも宗次に水分を渡そうとしたのだ。口腔から唾液を舌を使い口移しで何度も宗次へと渡す。
やがて唾液がなくなると、今度は死んだ父親の服や自分の服にびっしりと染み込んだ汗を宗次へと飲ませた。
母親は裸になりながらも宗次を守ろうとする。
宗次も黙ってそれを受け入れた、いや、受け入れるしかなかった。もはや幼児である宗次は動くことさえ出来ないほど弱体化していた。
薄暗いトンネルの中。渡せる水分は渡し尽した母親はなにかを決心したように立ち上がり、割れた蛍光灯の破片を手にする。
「……お…母……さ…ん?」
「―――て・・・・・・あ・・・・・・げ・・・・・・―――」
既に母親の声は、声にならなかった。
宗次の体の中にどろりとした液体が吸収され、『水分』となった。
やがて母親は力尽き動かなくなった。
しばらくして遅すぎる救助隊が現れる。
宗次は助かった。だが、一つだけ不可解なことがあった。母親が最後に飲ませてくれた『液体』はいったいなんだったのだろう?と。
宗次はこの大惨事の後、孤児院に引き取られ明るく、すくすくと成長していた。
「宗次く〜ん」
院長からテストを返してもらう。
「痛っ……」
その拍子に宗次は紙の端で指を切ってしまった。
「大丈夫?宗次くん」
「平気です、舐めとけば治りますから…」
そして宗次がその血を舐めた時、急に涙がこぼれた。
それは、知っている味だったから………トンネル事故の時、母親が渡してくれた最後の『水分』だったから………



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